DNAR誤解釈+患者家族お気持ち最優先理論=お看取りビジネス

前回の記事で、

DNAR = いっさいの治療不要

ではない、ということを解説した。

しかし、これを「DNAR の同意を取ったのだから、積極的な治療は不要」というように誤解釈する人が残念ながらいるということ述べた。
この誤解釈は、結果的に、本来であれば治療可能な誤嚥性肺炎のような患者が適切な治療がなされぬまま返らぬ人となることがあることも述べた。

最後にこれが「お看取りビジネス」のようなほとんど犯罪といってもいい事態につながってしまうことに言及した。

DNAR誤解釈からお看取りビジネスへの道筋へは、少々説明が必要だろう。
この二つの事象を結ぶパーツが必要だ。

このパーツをなんと表現すればいいのかわからないし、少々不謹慎な言い回しに聞こえるのを承知で言えば「患者ご家族お気持ち最優先理論」と言えば言えるだろうか。
最初に言っておくと、この考えは良識ある医師からしたら反吐の出るような考え方だ。

患者ご家族お気持ち最優先理論

医師が受け持ち患者の治療方針を立てるにあたって優先するのは、医学的妥当性であったり、療養担当規則で示されている指針であったりする。

そして、病院を含めた保険医療機関は、この治療方針に沿って組織的に患者さんの治療にあたる、というのが基本的な枠組みだ。

 

 

(続く)

DNAR=治療不要とミスリードさせ患者さんに不利益をもたらす困った人たち

精神科でも認知症を受け持つとこの問題に向き合うことになるのだが、その問題というのは「心肺停止時の患者さんにどの程度の治療を施すか?」というものだ。

心臓マッサージ→人工呼吸器のような流れになることもあれば、なにもしないという場合もある。

いつ心肺停止になるかを正確に予測することは不可能なので、そのリスクが高まった段階で、保護者などに病状を説明、治療としてどこまで行うかを予め決めておくのが普通だ。

認知症患者さんの場合、全身状態もそれほどよくはないので、無理やり蘇生を試みたところで思わしい結果になることは多くなく、大抵の場合、

DNAR(Do Not Attempt Resuscitation)

の同意をとると思う。
Do Not Attempt Resuscitation、要するに蘇生を試みないという同意だ。
輸液程度はするかもしれないが、基本、積極的な蘇生はしない。

そして、ここからが今回の本題なのだが、

DNAR = (全ての)治療不要

ということではない

 

DNAR に関する設問

猪股先生がネット上でこの点に関し明快な設問を投げかけていた。
私が下手くそな説明をするよりは、はるかにこの手の問題のポイントを把握できると思うので、ほぼそのまま掲載する。


Q. あなたは認知症肺炎患者の治療スタッフの一員で、主治医のムンテラに陪席しました。
肺炎自体は重症ではないですが、抗生剤の反応が思わしくなかったため、念の為、主治医は病状説明の後 DNAR を取りました。
患者家族も介護疲れからか積極的な治療に乗り気ではないようです。
医療者の取りうる態度として適当なものはどれか?

1. DNAR を取ったのだから、治療をやめてしまう
2. 患者家族の気持ちに寄り添い、治療は中止する
3. DNAR と肺炎の治療は直接の関係はないので治療は継続する


ここだけを取り出せば、間違える人は少ないと思う。
現在の医療的なコンセンサスで言えば、正解は 3 だ。

DNAR はあくまで心肺停止時に患者に対して取りうるべき処置の指針であり、それ以外の状況に適用するものではない。

現場で働いている医師や看護師からしたら、間違えようのないわかりやすい状況設定だと思う。
「軽度の肺炎は、標準的な治療で軽快する」というケースをそれこそ山のように経験しているので、上の状況が即座に心肺停止を想定するような状況に移行することはないと認識するからだ。

医療現場の困った人たち

一般の人にはピンとこないかもしれないが、臨床現場(の近く)にいながら、この状況を即座に飲み込めない人がいる。

不勉強な現場従事者もいることはいるのだが数的にはそう多くはない。誤答する人の多くはいわゆるケースワーカー(精神科領域で言えば PSW Psychiatric Social Worker)といわれる人々だ。
よくこの手の解説記事で「医療関係者であっても DNAR=医療不要 と誤解している人たちがいる」と記述を見かけるが、この場合の「医療関係者」はほとんどの場合(暗に)そういった人たちを指している。
はっきり書かないのは多分に政治的配慮からだ。

そういった人たちが選びがちな選択肢は「 2. 患者家族の気持ちに寄り添い、治療は中止する 」だ。
ちなみに、私は「医学的知識も貧弱なくせに専門家ズラ。気持ちだけ寄り添われても迷惑なだけだし、もし患者家族だったとしたら気持ち悪いと感じる」タイプだ。

「気持ち悪い」というのは感覚的なことだけではなく、実益的にも(この後書くが)患者さんの不利益につながってしまう可能性があるからだ。

介護疲れといった一時的なネガティブな感情につけこまれ家族を殺されては、溜まったものではない。

私は「正義の人」でもなんでもないが、こういう「善意が悪行につながる」展開は生得的に受け付けない。

彼らのロジック

「患者さんの不利益」を具体的にいうと、生死に関わるような状況でもなんでもないのに「安楽死・尊厳死」といったいわゆる終末期医療の問題をそこに見てしまい、標準的な治療で回復可能な病態であっても「患者さんの尊厳」という錦の御旗の下、治療の中止を主張してしまうといったことだ。
なんで軽度の肺炎が末期がんや ALS などの神経難病と同等の扱いになるのかよくわからないが、彼らの一部はどういうわけかそのように認識するようだ。
もちろん彼らの馬鹿げた主張はカンファランスなどで一笑にふされるのだが、これはその医療機関が正常に運営されている時に限る。
現在では、医師の偏在は顕著になり、慢性的に医療スタッフ不足に陥っている地域ではケースワーカーの主張が力を持ってしまうことがある。
医療常識に欠ける事務長や不勉強な(あるいは思想的に偏った)看護師などがこの考え方を支持しまうからだ。

私が聞いた範囲では、地方の医師不足の精神科単科病院では、不幸にもそのような状態が常態化しているところがあると聞く。

不幸な結末

意図的にやっているかどうかは別として、彼らのロジックに従って物事が推移すると結果的に
治療可能な患者さんをDNR・尊厳死にかこつけて放置、あたかも自然な病死のように取り扱って死亡退院させる
ことになる。

上にあげた問題設定でいうなら、ただの肺炎がほぼ全例死亡退院になってしまうのだ。

んな、ばかな。。。。

DNAR の誤解釈からお看取りビジネスへ

なぜ、DNAR の誤った解釈が怖いかというと、状況によっては『お看取りビジネス』へと発展してしまう可能性があるからだ。

さすがにこれは稿を改めることにしよう。

 

(追記)猪股先生がかなりリアルなケースに遭遇しています。
そのうち記事でまとめてくれることでしょう。